GODZILLA THE ARTに寄せて

ゼネラルプロデューサー

養老孟司

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ゴジラは、2024年に生誕70周年を迎えるそうだ。

そう言っている私は85歳。ゴジラより年上だ。その全てを知っている世代の生き残りは数少ない。それがこのゼネラルプロデューサーを任された意味だ。長く生きているだけで思いがけない役割が降ってくるのが人生だが、ゴジラの人気もまた、長く続いたものだ。

私にとってゴジラとはなんだっただろうか。

考えてみれば「災害」の象徴として終始あったように思う。1954年、最初の映画『ゴジラ』の背景には、水爆事故や環境汚染への問題提起の姿勢が作者にあったというが、その9年前の1945(昭和20)年に、原爆投下と戦争の終焉を経験した日本人は、なにを考えていただろう。

『ゴジラ』公開時に高校生だった私は、映画そのものというより、社会の空気としてゴジラを受け止めていた。だから、ゴジラは、地震や台風といった自然災害も含めた、災害のもたらした歴史や文化、歴史的に日本にある空気の象徴として、私の中にある。なにかうまくいえない、その形にならないものがゴジラとして姿を成し、動き出す。

ゴジラは言葉を発しないが、
日本で650年続いている能の構造にも似ている。

能では、幽霊が経験した哀しみや修羅を語って、聞く人の共感を得ることで鎮魂され、いつしか消えていく。能における幽霊は再び現れることも多いが、その語りを聞くこちらにもまた、鎮魂、そして再生の気運が生まれる。圧倒的な破壊を行うゴジラも同じだ。必要な場所を訪れて、破壊し、何かを諭したかのように去っていく。日本で繰り返し必要とされるのは当たり前なのだ。ゴジラは、忘れがちな何かを教えてくれている。

人々は「ゴジラ」を概念で理解し、これまでの映画制作者やゴジラに関わった表現者は自分の頭の中の具体的な「the ゴジラ」を表現してきた。

その集積が今の形にならない概念、「ゴジラ」となった。時代の空気の象徴として、ゴジラを現代に更新し続けられること自体が、ゴジラの概念が強靭であることの表れだ。それが、他のキャラクターとゴジラの違うところなのだろう。

文明社会が言葉によって同質性を高め、「同じ」の世界を求める一方で、芸術は世界の違いを感覚で呼び戻す作用がある。言うなれば文明の解毒薬だ。同じものが一つもない世界で優れたもの、それが芸術作品となる。

本企画の名前は「GODZILLA “THE” ART」だ。企画参加者のそれぞれの独自の「the ゴジラ」を描き出すことが、その意義であり、おもしろみでもあるように思う。それぞれの表現者が自身の「the ゴジラ」を追求することで、新たな「ゴジラ」が立ち上がる。

海外でも非常に愛されているというが、2016年に公開された庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』では、今私が住む鎌倉の界隈が電信柱ごと見事に踏み潰されていて、あっぱれでさえあった。この破壊のあと、私たちはそこになにをまた生み出すのか、どう再生していくのか。今、なにがアートに求められているのか。ゴジラはずっと無言で問いかけている。